sasakittyの日々の記録です。
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#宗吾霊堂 |
CATEGORY : [特殊な場所] |
所用で千葉県の佐原方面に出掛けたついで、折角だから一泊しようと寒風吹荒ぶ房総の古い町並みやら古刹を巡って来た週末です。
町が寂れて行くのには事情が在り、寂れた町が更なる観光資源として生まれ変わって行く姿も、一旅行者として興味深い所でもあります。 何度か千葉は旅していますが、まだまだ行った事の無い場所は山ほど在ります・・・・。 最近話題に成って居る,千葉県警の不正経理問題なんて事が在りましたが、千葉県は割とその手の癒着や談合とかにはルーズな土地柄と云う印象が、ハマコーさんの時代の前から在ったみたいです・・・。 ハマコーさんとは一度もお会いした事が在りませんから、良い人か悪い奴かは存じませんが、ネットで知る限りでは,数々の利益を千葉県に誘導した訳ですから,千葉県民的には功労者なのかもしれません。 トコロは千葉県の佐倉藩・・・・1651年頃(慶安4年)三年続いた飢饉と理不尽な迄もの年貢の取り立てにより、百姓達は一触即発の事態を迎えた時代の御話で御座居ます・・・。 当時の藩主は若干21歳の堀田正信公と仰る方でしたが、正信公が江戸に行き多忙を極めている隙に、家老共が色々と悪事を働いていたそうなんです・・・。 その悪政に怒った佐倉惣五郎(後に佐倉宗吾・・・以下、宗吾様)は、幕府の家老や役人に訴えたにも拘らず,ことごとく訴えは退けられ、宗吾様の村人を想う気持ちは遂に・・・・、家族とも絶縁をして、将軍様に直訴すると云う行動に出て仕舞った訳です。 将軍に直訴と云えば、当時の法で当人は磔で血縁者は打首の刑だった様ですから、360年前と現在との感覚の違いは良く解りますな。 意を決した宗吾様は1653年上野の寛永寺で将軍家綱様に直訴の訴状を渡した訳です。 直訴は功を奏し、藩の百姓に対する仕打ちは改善された様でしたが、宗吾様は磔の上処刑され,幼い子供等四人は打首に合い、妻は尼に成ったそうです・・・。 360年前の隣の千葉の話しですよ・・・・。 命を賭して村人達を救った、宗吾様の御遺徳を偲び佐倉の人々は今もなお、宗吾様をおまつりして居るそうです。 なんだか歴史の時間の様ですが、講談や歌舞伎向きのストーリーでも在り、更には宗吾様の祟りで、堀田家に災いが降り掛かったと云うスペシャルな後日談迄在るそうです。 宗吾霊堂の境内に在る、霊宝殿にはなんと・・・新東宝で製作された「怨霊佐倉大騒動」と云う・・昭和30年代の如何にも新東宝っぽいタイトルの16ミリプリントが奉納されていましたから、何か因縁を感じます・・・。 さすが大蔵貢(新東宝の当時の社長さん)目の付けドコロが違いますな・・・。 と言う訳で・・画像は宗吾霊堂のレトロなお土産物屋の並ぶ参道です。 宗吾霊堂へは京成本線の宗吾参道駅からが便利な様です。 あと・・・特にお勧めは,昭和チックな書き割り満載の本堂裏手の「宗吾一代記念館」です。 この記念館も,可成りの老朽化が進んでいますから、乃村工藝社が確立したパノラマ展示の技術の流れを汲む、現存する数少な展示様式ですから,ディスプレーを勉強する学生さんは、要チェックです。 直訴と云う手段で有名なのは,後に足尾鉱毒事件の田中正造さんなんかが有名ですが、民主主義の現代では、直訴する相手が有権者ですから、気の遠く成る話しですな。 PR |
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