sasakittyの日々の記録です。
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#32年と云う年月 |
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プロ野球のセントラルリーグは、今シーズンの夏休みの企画として、各球団がかつて着用していた、懐かしいデザインのユニフォームを着用して、公式戦を行うと言う、 ファンに取っては誠に楽しみな企画を打ち出しています。
グッズの販売と言う算盤勘定も在るでしょうが、リーグ全体でのファンサービスへの取り組みは評価に値する事でしよう。 昨日も横浜スタジアムの緑のフィールドに散らばった32年前のユニフォームには、何とも言えない懐かしさが在りました。 袖には今は亡きTAIYOの文字が縫い込まれていますが、大洋がベイスターズに成ってから既に17年経っていますから・・・当時10歳だった少年ファンでも既に27歳に成って居る訳です。 古いファンには、永遠に耳から離れない曲・・・・コロンビアレコードが誇る最後の昭和歌謡歌手・三鷹淳先生作曲の「行くぞ大洋」なんかは歌える筈も在りません・・。 僕が初めて横浜スタジアムに行ったのは1978年の4月4日ですから、器とユニフォームは同じでも行われて居る興行は,天と地との差がありました。 当時はスコアーボードこそ、後楽園球場と並ぶ、悲願の電光掲示式に成りましたが、選手が打席に入る度の紹介の映像なんかは流れませんし、スタジアムDJも居なければ・・・チアリーダーも居ません。 トランペットの応援も、まだ確立されて居ない状況でしたから、酔っ払いのヤジがピッチャーマウンド迄届いて居た時代です。 今の選手は皆さん,1980年近辺の生まれ位な時代ですから、現在の興行の形態しか知らないのも当然です。 再下位にも拘らず、2万4千人の観客の前で試合が出来ると云う事に、「有り難い」と思わなければバチが当たります。 営業部と云うセクションが、前売り券と少々のグッズさえ売って居れば良かった時代とうって変って・・・、様々な企業とコラボレーションをして、チームをブランドとしてビジネスに結び付けて行く事との違いが、川崎球場に居た時代と大きく変わった事なのかも知れません。 親会社の道楽で運営されて居る赤字会社とは、大きく違います。 それにしても昨晩のベイスターズも不甲斐ないですな・・・。 プロが全力でやって居るのだから、あれがチームとしての力量なのでしょうが「勝てない集団」と言う現場の雰囲気が、何となく感じられて仕舞います。 我々の「撮影」と言う世界も同じですが「予定を消化する」と云う為に集まって居る集団と、「面白い物を造って居るんだ」と思って居る集団とでは、現場の空気はまるで違います。 1977年頃の大洋は「オーナーの期待に添う為に頑張ろう」と云う空気が在った様です。 当時の大洋球団のオーナーは,大洋漁業の社長・中部兼吉さんと云う方で、シーズンが始まる前に急逝したと云う事情が在りました。 親族経営に抵抗の在る人の方が多いいのが,今の社会では当然カト思いますが、オーナーと云うポジションは、やはり名士か資産家と云うのが理想ですな・・・。 雇われオーナーや出向オーナーじゃ・・・・なんだか夢や愛情の薄い・・・寂しい物を感じますな。 ト云う訳で,本日の画像は打ち合わせの後に通り掛った、嘗て大洋ホエールズの練習場の在った、川崎市の等々力公園付近です。 この看板も33年以上前に建てられた物で、近付いて良く観ると「大洋球団等々力グランド」とうっすら書かれています。 この坂を下った所に当時は合宿所が在りました。 合宿の大きな風呂場には、人魚をあしらったタイル絵が描かれて居り、その風呂場で転んだ為に,ジャイアント馬場こと馬場正平選手はプロレスラーに転向したそうです。 風呂場の横には小さなブルペンが在り、合宿の棟に隣接してコレ又小さな体育館が在りました。 そのチッポケな体育館で,平松政司投手のカミソリシュートは生まれたと言い伝えられています。 カラー部分が1974年の航空写真による合宿所の全容。 敷地の隣の町工場群は,未だ健在で操業を続けていました。 川崎市には,是非とも記念碑の一つでも建立して頂きたい物ですな・・・。 PR |
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