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2024年11月21日  16時59分
神戸・九州酩酊街道  一日目
CATEGORY : [特殊な場所]
   様々な用事と企画と業務が重なり・・大阪・神戸・徳島・淡路島・鹿児島・福岡と云う・・大日本プロレスさんの巡業並みのツアーとなりました。
   スマホから書き込もうと思っていましたが、「酩酊街道」に書き込むのに専用のアプリが必要らしく、そんな事を想定しなかった我が部隊は・・・・パスワードが判らず書き込みを断念。
   ト云うか・・・呑気に旅日記なんか書いて居る余裕のない旅でした・・。
ソレでは掻い摘んでお楽しみ下さいませ。

 東京を出て、先ず最初は大阪在住の画家でパフォーマーの小灘精一氏と落ち合いまして、天王寺の駅前で歓談。 場所を難波に移して関西の文化芸術の現状についてチョコレートパフェを突きながら御意見を伺いました。 
  東京では気づかない事を数多く伺い、単時間ではありましたが有意義な時間でありました。
   
 因みに画像は小灘氏とは関係のない共産党のポスター。
写真の若い青年が、果たして好感を持たれるか?・・微妙なチョイス。
   そして在来線で神戸へ移動して、「維新派」の舞台を見ました。
神戸の旧生糸検査所に組まれた舞台ですが、今まで食べた事のない食べ口の舞台でした。   緻密に計算されて構成され稽古を重ねた表現は圧巻でした。
   舞台の余韻に浸るべく、湊川公園周辺から福原・・・新開地のゴールデンコースを堪能し、福原の名物「大谷の貝焼き」と、これ又福原の老舗寿司店の宝寿司さんで、巻きずしと箱寿司を肴に仕上げの一杯。
   関西でも江戸式の握りが主流ですが、やはり関西といえば巻き寿司と箱寿司。
  ご主人の慎太郎さんのススメで、明日は徳島へ。
























 
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2012年07月21日  12時01分
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鮫洲試験場
CATEGORY : [特殊な場所]
 先日、平日に時間が出来たので、役所廻りの1日という事で・・・朝から全ての行程を徒歩で、届け出回りをして参りました。
メニューは・・
 区役所の大崎支所で移動届けを出した後に、郵便局で横浜銀行から送付された書留を受け取り・・・東京電力の口座振替の届けをして、大崎警察で古物商の届け出の変更届を出して、警視庁の鮫洲運転免許試験場で住所の変更をする・・。と云った内容です。

 8時30から全行程スムーズに行けば、1時頃には鮫洲試験場のディープな食堂で、コロッケカレーでも食べようと画策し・・事務所を出た訳です。
 役所廻りのスタイルと云えば、カッターシャッにネクタイで紺のパンツに信用金庫の皆さんも愛用して居るボアの付いたドカジャン・・。
 震災直後だった為に・・足下は安全の為に半長靴。 勿論裾はブーツインです・・。
1960年代の土建屋の社長と云えば・・解り易いスタイルです。
 ヘルメットを着用すれば完璧でしたが、警察に行くときヘルメット着用だと・・話しがややこしく成るので割愛致しました。
 
 とは云え・・日中長時間、紫外線やら花粉やら放射線やら浴びて歩く訳ですから、緑色のセマウル運動帽を被る訳ですが・・・最早・・何を目的としているか不明な出立ちと成りますが・・・20年位前迄の公的機関の視察スタイルを醸し出して居るのは、玄人が見れば解ります。
 「役所の方から来ました」と云って、消火器を売り歩いたり・・耐震補強のリフォームの話しを持ちかければ、70歳以上の老人なら100%の信頼を得る事請け合いです。
 
 先ずは大崎の区役所の支所に行って、移動届けを出します。
引越前に印鑑証明を取りに行った時、ついでに移動届けを出そうとしたら、「引越後でなければ受け付けられません・・」と云われた物ですから、面倒ですが引越後2週間が経過した頃に提出という事と成りました。
 そして、支所の在る場所から400メートル位 五反田方面に戻った大崎郵便局で書留を受け取る訳ですが、書留を受け取る際には身分証明と成る物を掲示しないと受け取れませんが、生憎免許証に記載されて居る住所と郵便物の住所は違いますから、一番信用性の在る免許証は身分証明としては使えません。 
 何か無いかと思ったら、先程届け出の際に貰った健康保険証がありました・・・。
あの・・世の中で一番偽造し易そうな身分証明証です。

 そして書留を受け取ると、次の届け出は郵便貯金の口座から東京電力への振替の手続きですが・・ココでつまづく分けです・・。
 印鑑もカードも諸々在るのですが・・通帳が無いと口座振替の手続きが出来ないそうなのです・・。
 水道局なんか電話1本で大丈夫だったのに・・・この対応の違いはなんだろうと疑問に思いつつも・・ごねる事無く撤退致しました。
 
 通帳を取りに事務所に戻るか・・前進するかと云えば・・ココは前進です。
次なる目標は大崎警察の生活安全課です。
 節電のため、受付の在る二階迄階段を上がる訳ですが・・余りの不明な格好に・・警察の皆さんの視線が集まるのが解ります・・。
 
 古物の担当者の方から申請書を預かり、諸々記載し直して提出する訳ですが・・なんと住民票が必要な事が発覚・・。
 大崎署から品川区役所へと住民票を取りに歩きます・・。
品川区役所迄歩くと・・鮫洲の試験場は割と近いですから・・試験場で住所変更を先にする事に予定を変更・・。
 試験場でのディープなランチを断念して・・大崎警察へと戻ります。
途中、茶店で古物の申請書を三枚書き上げて・・大崎署に戻り、書類を提出し終わり・・事務所に戻る道すがら・・突然大崎署の古物担当の方から電話が入りました・・。
 なんと、提出した書類の書式が古い物で・・再度書き直して欲しいとの電話・・・。

「古い日記」では無く「古い書式」です・・・・いやはや困った物ですが、300メートル位引き返します。

都合三回大崎署を出入りした訳です・・。

 いやはや・・
バイクなんかで廻れば2時間位で済みそうな用事でしたが、5時間位掛かりました・・。
 途中、仏具屋さんやら普段訪れない様な商店で買い物をし乍ら、結構楽しめた散歩でした・・。

 しかし・・鮫洲の試験場が建て替えられるのが残念で成りませんな・・。

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 恐らく老朽化という奴が原因なのでしょうが・・1960年代に建てられた様な建物が・・ことごとく姿を消して行くのは寂しい物が在ります。
 
  江戸時代・・明治時代・・大正時代の建物は、僅かでは在りますが保存運動やら移築が行われていますが・・あの中途半端に大きくて・・・デザイン性も乏しく、実用性も無い・・高度経済成長の残滓と云われる様な迷建築が・・日本の建築史から抹殺されるのは忍びない物が在りますな・・。
 住宅としては・・江戸東京建物園に、幾つか現存していますが、公共の建築としては皆無と成る時代も訪れる事でしょう。
 1967年生まれの自分としては・・自分の事の様に悲しい物が在りますな・・。
2011年03月27日  05時38分
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灯油略奪作戦!
CATEGORY : [特殊な場所]
 昨日のブログ「三つの骨壺」の文体やら改行やら変換が・・普段と違ったのには理由があるのです・・。
 
 実はあの日・・陶器屋さんで諸々仕入れをした後、その町の川ベリに佇む大正時代から続く・・古びた商人宿に逗留する事と成りました。
 1月のカラッ風が・・運河に沿って並んで居る、柳の枝をも縮み上がらせる様な・・嘗ての商人の街での事です。

 宿屋の主人に伺った、近所の銭湯で熱い湯を浴びてから、湯ざめしない距離の中華屋さんで、紹興酒の熱燗を二合流し込み・・、宿に戻って布団に潜り込んだ訳ですが・・。   その部屋は何故か・・・エアコンと云う物ではなく、石油ファンヒーターと云う暖房器具が設置されて居りました。
 木造の宿ですから、石油ストーブと云うのも・・防火上如何な物かと思いましたが・・この宿にしてみれば「火鉢」が在った時代に比べたら・・格段に安全性が高いのでしょう。
 兎も角、エアコンよりも・・暖まるのは石油ファンヒーターの方が早い訳ですから、コチラとしては有難い訳です。
 
 一寸休んで・・暫くしてから呑みに行こうと画策していたsasakittyですが、余程疲れていたのか・・・目が覚めたら夜中の1時30分・・。
 その時事件は起ったのです・・。

 要は、寒さで目が覚めた様な所もありますから、再び石油ファンヒーターの電源を入れて、室温を上げようと思った所・・・無情にも・・燃料の灯油が無い為・・「ピッピコピッピコ・・」電子音が、暗闇の冷め切った畳の8畳間に鳴り響くのです・・。
 「・・・・・・・・・」
朝食の7時迄・・・5時間半・・・酷寒の地でのサバイバルの始まりです。

 襦袢の上から浴衣を羽織っていましたが・・更に丹前を羽織って・・策を練ります。

どんな状況でも策を練るのが男です・・。

 宿の構造上・・灯油は1階の何処か厨房の側の「お勝手」の様な所か・・・、裏玄関の外・・。
 そんな所に、宿の皆さんが寝静まった時間・・灯油のタンクを抱えて徘徊するのも如何な物かと思います。

 しかも・・1階は、宿屋のプライベートエリアですから、幾ら緊急事態といえども非常識です・・。

 とは云え寒い・・。

今、この室内で熱を発する物は、1000Wのドライヤーと沸騰ポットだけですが、ポットの蓋を開けて置くのも・・・ドライヤーを付けっぱなしにして置くのも、焼け石に水と申しますか・・。
 割れ鍋に閉じ蓋・・と申しますか・・南極でホッカイロぐらいに・・ノーパワーです。
 お湯をペットボトルに詰めて、ユタンポにすると云う策も考えましたが、室内に残っているのは、半分以上残って居る生酒の750ミリリットルのボトルだけです。
 中身を何処かに避難させられる訳でもなく・・その案も廃案と成ります。

と成れば・・最後の手段・・。

 資源が無ければ略奪するのが歴史的成る、世の習いです・・。
 
 空き部屋の石油ファンヒーターから、タンクごと灯油を略奪する計画を実行する事と成りました。

 取り敢えず、便所に行く振りをし乍ら・・隣の部屋を覗いてみます。
同型のヒーターが在れば、実力行使で略奪です。
 生き延びる為には手段を選びません・・。

 そして恐る恐る・・襖を引くと・・・。
無情にも・・ヒーターは無く・・在るのは只・・エアコンと・・敷きっ放ちの布団が二組です。

 そして次の部屋も、空振り・・。
 
 これ以上進んで・・白骨死体とが出て来たら・・コレ又怖い物が在りますから・・略奪作戦も作戦の変更を余儀なくさせられます。
 
 そうこうして居る間に・・時間は夜中の3時・・。

 後、3時間もすれば・・宿屋の皆さんも起きるで在ろうと・・ココロで祈りつつ・・、冷えきったカラダを布団の中に入り、毛布を頭から被って羊の数を数えるのでした・・。
「マトンが一皿・・」「マトンが二皿・・」「マトンが・・・・・・」

 そして又、寒さで目が覚めた頃・・遂にココロの中の「マトン」も品切れと成り、時間潰す為に書いていたのが昨日のブログと云う訳だったのです。
 
 いやはや・・・
 まるで「つげ義春」の貧乏旅行の様な話しですが・・・21世紀にこの様な展開が待ち受けて居るとは人生は侮れません。
 木賃宿で木賃が払えない訳では無いのですが・・・。

文化的な恩恵を享受し過ぎて居たと云う事に対して・・反省しています。

 ト云う訳で、本日の画像は・・大正の頃建てられた宿屋さんの障子越しの美しい光。

 このバウンスした独特の明かりの美しさは、日本人にしか理解し得ない物なのかもしれませんな・・。
2011年01月31日  08時25分
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永青文庫
CATEGORY : [特殊な場所]
 40年ぐらい東京に住んでいる計算と成る訳ですが、東京の中でもまだまだ行った事の無い場所と言う所は有ります。
 商売柄、古い建築物や・・一般では入れない様な所も立ち入らせて貰って居る訳ですが、昨日伺った目白台の永青文庫も中々素敵な佇まいの場所でした。

 昭和の初期に、細川家の事務所として建てられた建築の様ですが、今では美術館として一般に公開されています。

 16代当主の細川護立さんのコレクションが中心に、収集管理されて居る様です。
 
 様々な蔵書等も、書棚に有りましたが、今の時代と違って海を渡ってアジアの端っこに辿り着いたヨーロッパを始めとする海外の初版本にはやや驚きますな。
 現代と違って、世界の歴史や文化の情報が手に入りにくい時代だった訳ですから、情報を手に入れると言う事が・・既に限られた階層のみに与えられた特権だったのカモ知れませんな。

 そう考えたら、今の時代の特権なんて薄っぺらい物ですな・・。

「庶民の口には入らない・・」とか云いますが、無理すれば食べられる時代な訳ですから・・まだまだ格差なんて言っていたら、先人達からは怒られます。
2010年11月29日  13時55分
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32年と云う年月
CATEGORY : [特殊な場所]
 プロ野球のセントラルリーグは、今シーズンの夏休みの企画として、各球団がかつて着用していた、懐かしいデザインのユニフォームを着用して、公式戦を行うと言う、 ファンに取っては誠に楽しみな企画を打ち出しています。

 グッズの販売と言う算盤勘定も在るでしょうが、リーグ全体でのファンサービスへの取り組みは評価に値する事でしよう。
 
 昨日も横浜スタジアムの緑のフィールドに散らばった32年前のユニフォームには、何とも言えない懐かしさが在りました。
 袖には今は亡きTAIYOの文字が縫い込まれていますが、大洋がベイスターズに成ってから既に17年経っていますから・・・当時10歳だった少年ファンでも既に27歳に成って居る訳です。
 古いファンには、永遠に耳から離れない曲・・・・コロンビアレコードが誇る最後の昭和歌謡歌手・三鷹淳先生作曲の「行くぞ大洋」なんかは歌える筈も在りません・・。
 
 僕が初めて横浜スタジアムに行ったのは1978年の4月4日ですから、器とユニフォームは同じでも行われて居る興行は,天と地との差がありました。

 当時はスコアーボードこそ、後楽園球場と並ぶ、悲願の電光掲示式に成りましたが、選手が打席に入る度の紹介の映像なんかは流れませんし、スタジアムDJも居なければ・・・チアリーダーも居ません。
 トランペットの応援も、まだ確立されて居ない状況でしたから、酔っ払いのヤジがピッチャーマウンド迄届いて居た時代です。

 今の選手は皆さん,1980年近辺の生まれ位な時代ですから、現在の興行の形態しか知らないのも当然です。
 再下位にも拘らず、2万4千人の観客の前で試合が出来ると云う事に、「有り難い」と思わなければバチが当たります。
 
 営業部と云うセクションが、前売り券と少々のグッズさえ売って居れば良かった時代とうって変って・・・、様々な企業とコラボレーションをして、チームをブランドとしてビジネスに結び付けて行く事との違いが、川崎球場に居た時代と大きく変わった事なのかも知れません。
 親会社の道楽で運営されて居る赤字会社とは、大きく違います。

 それにしても昨晩のベイスターズも不甲斐ないですな・・・。

 プロが全力でやって居るのだから、あれがチームとしての力量なのでしょうが「勝てない集団」と言う現場の雰囲気が、何となく感じられて仕舞います。

 我々の「撮影」と言う世界も同じですが「予定を消化する」と云う為に集まって居る集団と、「面白い物を造って居るんだ」と思って居る集団とでは、現場の空気はまるで違います。

 1977年頃の大洋は「オーナーの期待に添う為に頑張ろう」と云う空気が在った様です。
 当時の大洋球団のオーナーは,大洋漁業の社長・中部兼吉さんと云う方で、シーズンが始まる前に急逝したと云う事情が在りました。
 
 親族経営に抵抗の在る人の方が多いいのが,今の社会では当然カト思いますが、オーナーと云うポジションは、やはり名士か資産家と云うのが理想ですな・・・。
 雇われオーナーや出向オーナーじゃ・・・・なんだか夢や愛情の薄い・・・寂しい物を感じますな。

 ト云う訳で,本日の画像は打ち合わせの後に通り掛った、嘗て大洋ホエールズの練習場の在った、川崎市の等々力公園付近です。

  この看板も33年以上前に建てられた物で、近付いて良く観ると「大洋球団等々力グランド」とうっすら書かれています。


 この坂を下った所に当時は合宿所が在りました。
合宿の大きな風呂場には、人魚をあしらったタイル絵が描かれて居り、その風呂場で転んだ為に,ジャイアント馬場こと馬場正平選手はプロレスラーに転向したそうです。

 風呂場の横には小さなブルペンが在り、合宿の棟に隣接してコレ又小さな体育館が在りました。
 そのチッポケな体育館で,平松政司投手のカミソリシュートは生まれたと言い伝えられています。

カラー部分が1974年の航空写真による合宿所の全容。

敷地の隣の町工場群は,未だ健在で操業を続けていました。

 
 川崎市には,是非とも記念碑の一つでも建立して頂きたい物ですな・・・。
2010年08月19日  06時30分
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高田酒店
CATEGORY : [特殊な場所]
 資料の写真を探して昔のアルバムを開いて驚いた事が在ります。
もうカレコレ20年以上昔の写真ですから、結構色褪せ始めたりして居るのです。
 デジタルカメラの映像ばかり見ていますから、フィルム独特の感じが良い訳なのですが「必要な画像はデジタイズする様にしよう!!」と心に誓って、フィルムスキャナーなんて物を買ってみました。
 ネガ・フィルムをデジタルデーターに変換する機材なのですが、昔物凄く高価だった物が、今では1萬数千円で買えたりするから驚きです。

 ネガ自体も、色がおかしく成って居る物も在りますから、正確には全てのデーターの色補正をしなければ使い物には成らない訳ですが、資料レベルでは別に厳密な調整は必要ないとの判断から、ガンガン取り込んでいます。

 そんな中から御気に入りの一枚をご紹介致しましょう。
1990年頃、横須賀の汐入と言う場所に在った高田酒店さんです。

 戦前から在る建物なのでしょうが、典型的な港の外れの縄暖簾の酒場です。
一階奥と、二階が住居に成って居る、標準的な住付き店舗と云う様式で、奥の部屋に至っては、生活感満載の様相を呈して居ります。
 今、こんな暮らしをして居る人は皆無と云っても良いでしょうが、嘗ては標準的な店の作りでも在りました。
 その位、昔の時代はプライベートなんて言葉は在りませんでしたから、夜中に薬局に行って、薬を分けて貰うなんて事は、ザラに行われていた訳です。

 店内は勿論、夕暮れ時から近所の旦那集が、大相撲を眺め乍ら一杯やると云った風情の、由緒正しき隣近所の酒場です。

 スーツの客なんか当然きませんし・・・1990年当時は、酒場を有り難がって巡礼する人も礼参する人も居ませんでした。
 商売柄、古い建築と生活様式の資料収集の為に、写真を撮り歩いていたsasakitty青年は、当然ココイラの旦那集達と世間話をし乍ら、薄切りした大根の漬け物をつまみにサワーなんか飲んでいた訳です。
 20年前でも未だ、クーラーも無く・・ハエ取りリボンのぶら下がるカウンターの下で、団扇で扇ぎ乍ら、40年以上も代り映えのしない面子で繰り広げられる、目新しく無い話題が、中々耳に心地よかった記憶が在ります。
 
 昔の日本映画なんかでは、此のぐらいの密度の飾り方のセットが良く在りましたが、今時の細かくカットを割る撮影手法だと、いちいち飾りを退けたり移動したりが大変なので、実際の所・・・撮影効率を考えると使いコナセナイ場合の方が多い訳です。


 翌年に伺った際の画像では、台風で入り口の看板がぶっ飛んだそうでした・・・。

今でも在れば伺いたい所ですが、
 此の建物も、酒場自体も現存していません。
残念な事ですな・・・。

2010年06月12日  15時26分
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謎の宿
CATEGORY : [特殊な場所]
 例えば・・・・。
自分が、都会や世間と云うしがらみを忘れて、山奥の民宿にぶらりと出掛け・・・、その辺鄙(へんぴ)な地方の人との温もりに触れて、癒される・・・。
 そんな幻想を抱いて旅に来て居る人に対して、受け入れる側の9割が東京などの都市部在住で・・・尚且つ、堅気(かたぎ)では無かったら・・・。
 旅行者にとっては裏切られた気持ちに成るに違いないでしょう。

 僕も以前、能登半島の鄙(ひな)びた温泉に、知人と訪れた事が在りましたが、その宿は鄙びて居るどころか「鄙びた感・・」と云う、日本人が何所か郷愁を求める所を売りにして、一財を成し・・鄙びた宿の裏手に在る屋根付きの車庫にフェラーリを隠匿して居る有様でした・・・。
 サービスを提供する側なんて、実際そんな物なのでしよう・・。
平成の時代に「つげ義春」の漫画に出て来る様な旅なんかは、ナカナカ出来る筈も在りません。

 と言う訳で、前置きに書かれて居る「カタギでは無い」人々の宿の従業員を1日やって参りました。

 本当は、手伝う予定は無かったのですが、馴染みのメンバーが揃っていたので、一宿二飯一晩酌の働きを手伝わせて頂きました。
 
 メンバーは、その宿を運営して居らっしゃる、某劇団のウルサガタ役者・・・そしてもう一人は、関西の某劇団の作・演出を務める座長さんで関西演劇業界の重鎮・・・・・そして三人目は某大手広告制作会社の管理職・・・・そして謎の着物の男sasakitty・・・・と云う、普段余り山間部に適応して居られない皆さんな訳です。

 とても「この村から出た事が無い・・」とか「東京には5年前にしか行った事が無い・・」とかそんな純朴なセリフの出なさそうな面々です。

 それでもまあ・・・連休のレジャーでお越しに成って居る皆様の夢を壊しては行けませんから、それなりに「純粋に仕事を楽しんで居る」と云う感じが伝わる様に努めます。
 
 当然皆さん40過ぎの大人が、気分転換に配膳やら接客やら皿洗いをして居ますから、そこら辺の嫌々手伝わされて居るバイト君とは笑顔の「質」が違います。

 一緒にやらせて頂いて居て、仕事の飲み込みの速さと、かなり熟練して居るかの様な連携プレーに感心させられる訳です・・・。
 さすがは普段 人の上に立つ人達は人からの指示なんか待ちゃしませんから・・・史上最悪のイラチ(せっかち)集団でもある訳です。

 僕なんかは厨房のバイトとかをした事が在りませんから、やり馴れない仕事は何をやっても楽しいのですが、若い時代にトラウマと成って居る人は、絶対に嫌がる作業なのでしよう。
 本当は群馬県の伊勢崎で、機屋(はたや)の旦那衆と一緒に着流しで博打(オートレース!!)をする積もりでしたから、sasakittyは着物しか持って来ていませんでした。
 この極悪な人相でTシャツにエプロンなんか着た日には、お客さんがボラれるんじゃないかと心配に成りますから、町まで戻って藍染めの前掛けを買って来ました。
 宝船の描かれて居るスタンダードな物と、誰が何の為に作ったか解らない不動明王の描かれて居る物と、二種類在りましたが、取り敢えず安全な方を選んだのは言う迄も在りません・・・。
 
 車に積んであった、細い麻縄でタスキを作って戦闘準備完了です。
最初に和装で現れた僕のツラを拝んだ二人の川原者は「お正月の人が来たで〜」と人の事を嘲笑って置き乍ら、今度は仕事する気満々のスタイルに成って居るにも拘らず「でかい丁稚(でっち)やな〜」と、畳み掛ける様に厭味を連発して来ます。
 
 こんな事で めげて居ては、この獣達の中では生き残る事はで着ません・・・。こう云った場合でも、仕事が出来ない奴は、せめて「形(katachi)」から入らないと御客様に対して失礼な訳です・・・。職人の基本姿勢でもあります。

 そんな塩梅で、狸やら狐やら熊やらは・・・人間にバレる事無く民宿の従業員に成り棲まし、お客さんの居なく成ったロビーで、コレ又都会から来た「法律の番人」と酒盛りをして居たと云うお話でした・・・・・。

 目出度し目出度し。



 画像は、謎の民宿に行く道中に立ち寄った別の宿に掛けられていた「大勲位」揮毫に因る書。

 「人生に意気を感じる・・」

           仰る通りかも知れませんな・・・。
2010年05月04日  04時27分
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宗吾霊堂
CATEGORY : [特殊な場所]
 所用で千葉県の佐原方面に出掛けたついで、折角だから一泊しようと寒風吹荒ぶ房総の古い町並みやら古刹を巡って来た週末です。
 町が寂れて行くのには事情が在り、寂れた町が更なる観光資源として生まれ変わって行く姿も、一旅行者として興味深い所でもあります。

 何度か千葉は旅していますが、まだまだ行った事の無い場所は山ほど在ります・・・・。
最近話題に成って居る,千葉県警の不正経理問題なんて事が在りましたが、千葉県は割とその手の癒着や談合とかにはルーズな土地柄と云う印象が、ハマコーさんの時代の前から在ったみたいです・・・。
 ハマコーさんとは一度もお会いした事が在りませんから、良い人か悪い奴かは存じませんが、ネットで知る限りでは,数々の利益を千葉県に誘導した訳ですから,千葉県民的には功労者なのかもしれません。 

 トコロは千葉県の佐倉藩・・・・1651年頃(慶安4年)三年続いた飢饉と理不尽な迄もの年貢の取り立てにより、百姓達は一触即発の事態を迎えた時代の御話で御座居ます・・・。

 当時の藩主は若干21歳の堀田正信公と仰る方でしたが、正信公が江戸に行き多忙を極めている隙に、家老共が色々と悪事を働いていたそうなんです・・・。
 その悪政に怒った佐倉惣五郎(後に佐倉宗吾・・・以下、宗吾様)は、幕府の家老や役人に訴えたにも拘らず,ことごとく訴えは退けられ、宗吾様の村人を想う気持ちは遂に・・・・、家族とも絶縁をして、将軍様に直訴すると云う行動に出て仕舞った訳です。
 将軍に直訴と云えば、当時の法で当人は磔で血縁者は打首の刑だった様ですから、360年前と現在との感覚の違いは良く解りますな。

 意を決した宗吾様は1653年上野の寛永寺で将軍家綱様に直訴の訴状を渡した訳です。
直訴は功を奏し、藩の百姓に対する仕打ちは改善された様でしたが、宗吾様は磔の上処刑され,幼い子供等四人は打首に合い、妻は尼に成ったそうです・・・。
 360年前の隣の千葉の話しですよ・・・・。

 命を賭して村人達を救った、宗吾様の御遺徳を偲び佐倉の人々は今もなお、宗吾様をおまつりして居るそうです。 

 なんだか歴史の時間の様ですが、講談や歌舞伎向きのストーリーでも在り、更には宗吾様の祟りで、堀田家に災いが降り掛かったと云うスペシャルな後日談迄在るそうです。

 宗吾霊堂の境内に在る、霊宝殿にはなんと・・・新東宝で製作された「怨霊佐倉大騒動」と云う・・昭和30年代の如何にも新東宝っぽいタイトルの16ミリプリントが奉納されていましたから、何か因縁を感じます・・・。
 さすが大蔵貢(新東宝の当時の社長さん)目の付けドコロが違いますな・・・。 

 と言う訳で・・画像は宗吾霊堂のレトロなお土産物屋の並ぶ参道です。
宗吾霊堂へは京成本線の宗吾参道駅からが便利な様です。
 あと・・・特にお勧めは,昭和チックな書き割り満載の本堂裏手の「宗吾一代記念館」です。
 この記念館も,可成りの老朽化が進んでいますから、乃村工藝社が確立したパノラマ展示の技術の流れを汲む、現存する数少な展示様式ですから,ディスプレーを勉強する学生さんは、要チェックです。 
 
 直訴と云う手段で有名なのは,後に足尾鉱毒事件の田中正造さんなんかが有名ですが、民主主義の現代では、直訴する相手が有権者ですから、気の遠く成る話しですな。
2010年02月07日  20時08分
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大道具さんの道具袋
CATEGORY : [特殊な場所]
 大工さんと同様、大道具さんも大工さんの流れを汲んでいますから、同じく道具袋と云う物を使います。
 昔は、金物屋さんやら材木屋さんの名前なんかが入った物も使われて居ましたが、昔の日活の大道具さんの物はイカしたオリジナルデザインの物です。

 白い帆布に黒と赤のラインがいかにも日活映画な感じを物語っています。

今だに旧日活OBの大道具さんなんかも使って居るのを見掛けますが、嘗ての映画産業華やかなりし時代が偲ばれますな。
2009年12月19日  05時40分
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堀久作
CATEGORY : [特殊な場所]
作業場の片隅に佇むかつての経営者のレリーフ
 


 堀久作さんは、日活と云う映画を語る上では不可欠な人物で、1960年代の日活の黄金時代から没落して行く1971年迄の波乱の時代に社長を勤めていらした方です。
 江の島水族館やホテル、不動産業の事業展開でも手腕を発揮もしましたが、ワンマン体勢でも有名な方だったらしく、一番有名なエピソードとしては、今日に伝えられる鈴木清順監督の名作「殺しの烙印」を「わからない映画を作ってもらっては困る」と名指しで非難して清順さんを契約解除に追い込んだ社長さんです。

 そんな、一時代を築いた人物のレリーフが、大道具の作業場の傍らに・・誰にも気に掛けられる事無く放置されています。
 
 栄枯盛衰を感じますな・・・。
2009年12月17日  14時42分
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お役所仕事
CATEGORY : [特殊な場所]
真ん中から管轄が違うそうです…




2009年06月17日  11時34分
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キトラ古墳
CATEGORY : [特殊な場所]
 カレコレ15年以上に亘って実施されて居る、2月10〜11日のsasakittyの関西巡礼ツアー・・。 
 要は、橿原神宮に建国記念を祝い、国家の安寧に感謝の意を込めて参拝を続けている訳ですが、今年も濃厚な旅と成りました・・。

 今年は、主に新しく知り合いに成った関西の現代美術系のお友達と、ミナミでイロイロとお話ししたり・・・、串カツ食べたり・・・きずし食べたり・・・ドテ食べたり・・・粕汁飲んだり・・・センマイ食べたり・・・味園泊まったりと・・・、次の関西仕事のリサーチしたり、空いた時間で次の仕事の参考試写したり・・。又、例によって遊んでるんだか働いてるのか解らない時間を堪能させて頂いた訳です・・。

 そして、散々飲んだ翌日は・・阿倍野橋から橿原神宮前駅迄向う訳ですが、コレ又毎年大体同じコースなので、千日前の竜田屋さんで朝飯を喰い・・・タクシーに乗って駅に向い・・・特急に乗って橿原の駅で降りて・・橿原観光ホテルで紅茶を啜り、拝礼に臨む訳です・・。
 
 祭式自体は明治のアタマ頃からやって居り、130年以上行っている訳ですから毎年同じ式次第で、厳粛にとり行われて居ります。
 詰まらないと思う人も多々居ると思いますが、15年以上参列して居ると、毎年僅か乍ら色々なリニューアルが在る訳です・・。
 神道と云う物は、伝統を重んじ乍らもしっかり改善も怠らない宗教なのでしょう・・。

宮司様が変わると、最後の〆のスピーチが結構変わります。
 宮司様と云えども人の子ですから、大人しい方もいらっしゃれば・・やや過激な方もいらっしゃったりします・・。

 あと、代表で拝礼為さる人々の、メンツが変わったりとかします。例えば・・・「今年は高市早苗先生が落選したから来てないな・・・」とか、余計な心配が沢山在る訳です。
 
 会場のパイプ椅子が新しく成ったり・・・防寒対策で廻廊にビニールシートが貼られたり・・・ストーブが置かれたり・・はたまたそれらが撤収されたり・・場内の大型テレビモニターが液晶テレビに変わったり・・・尺八の伴奏をなさる登山流宗家の若い家元がややお年を召し始めたり・・・。たった15年の間にも、様々な栄枯盛衰が在る訳です。
 
 そんな年中行事も定刻通り12時30分に終わると、今年は高校生時代の美術部の仲間と突然橿原神宮の駅前で待ち合わせる事と成りました。

 申し訳在りませんが、 何でも突然のsasakittyです・・。

 3年前に、東京から奈良に移住したそうなのですが、今では何故か日本で一番バブリーな人口6.010人の明日香村の村民に成って居るそうなのです・・・。
 
 ファミレスとかで、世間話でもして別れようカト思ったら・・・村の中を案内して呉れると云う展開と成り・・突然、飛鳥観光ツアーと成って仕舞いました・・。

 普通はレンタサイクルとか借りて、一日掛けて散策するのでしょうが、こちらは何故か八王子ナンバーのルノーです・・。
 
 あちらこちら見て回るかと云う話も在りましたが、全部観ると来年から来る楽しみが無く成るので、取り敢えず石舞台に向います・・。
 歴史の教科書では何遍も見た事は在りますが、実物を見るのは初めてです。

昭和27年に史跡として登録された様ですが、よくよく観ると石と石の接合部分がモルタルで補強されています・・。
 
 周囲の景観も、飛鳥の時代と云うよりも・・16世紀頃(?)にでも造られた田んぼの形状が色濃く主張して居る為、古墳と連想付けるには可成りの想像力を要します・・・。
 
 発掘した時点で盗掘されていた様ですから、1800年間の年月の間には、さぞ色々な事も在ったでしょう・・。
 当然中に人が棲んでいた時代も在れば、石室の中で様々な人の営みが行なわれて居た事も容易に想像出来ます。
 何でも公園にすれば良い物では在りませんな・・・。
 
 その次ぎに伺ったのは、日本最古の寺と言われて居ります、飛鳥寺跡です。
日本最古と云われる飛鳥大仏で有名ですが、コレ又二度の火災に因る消失を辛うじて免れた補修の跡が生々しいと云う印象を持ちました。

 そして、古墳とは関係なく、村の面白い所を数カ所観に行きましたが、最後に行ったのがあの有名なキトラ古墳です・・。

 世界最古の天体図と歴史的に非常に価値の高い壁画が発見された事で有名ですが、強引な調査法によって壁画と古墳内をカビだらけのズタズタにしてしまった事でも有名な所です。
 
 そんなキトラ古墳ですが、アルタミラ洞窟みたいに見学出来る様に成って居るのかと思いきや・・・な、なんとその姿は・・。
 絶命間際のひん死の状態・・・・集中治療室さながらな姿を露呈して居りました・・。



 これが我が国の文化財保護の現状なのでしょう・・。

後世に残る大失敗を隠蔽する為に、莫大な予算を使い続けるのでしょう・・。

 役人と大学の先生の考える事は解りませんな・・。

 7世紀頃の古墳を21世紀に覗き見してたら、墓穴を掘って仕舞ったなんて、落語みたいな話でした。




2009年02月11日  21時57分
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J.H.モーガン
CATEGORY : [特殊な場所]
 連日ロケハンに招集されるsasakitty・・・

本日の獲物は・・・無国籍な廃墟・・・。

 中々妙なオーダーですが、制作部さんが見つけて来たのは藤沢のとある物件です・・・。

 一応、神奈川県出身で建築史を多少勉強して参りましたsasakitty も、本日の物件は本当にノーマークでした。
 
 大正・昭和の日本の近代建築史の中で、数多くの名建築を残しているJ.H.モーガンと云う建築家の家が、藤沢に現存していた事を、僕は知りませんでした・・・。
 
 主に、横浜を中心に活躍をした建築家ですが、僕の中での代表作はなんと言っても根岸の競馬場のスタンドです・・・。
 
 重厚さと品の在る感じのバランスが、絶妙な作品を生み続けた建築家です・・。



 そんな名建築を生み出し続けたモーガンが暮らしていた家ですが、主人亡き後は様々な人の手に渡り、最後に手に入れた男があの・・悪名高き横井英樹氏だったそうなのです・・。

 そして横井英樹の莫大な債券を処理する為に、債権回収機構の管理下に置かれ、宅地として分譲されようとして居たてのですから、本当に不動産屋と云う人達は「文化財と云う物に興味の無い人達なんだ・・・」とつくづく感じます。
 そして、そんな瀬戸際のモーガン邸を保存しようと言った運動が、近隣の市民や現在の所有者であるナショナルトラストと云う財団法人によって行われている様なのです。

 そんな、モーガン邸ですが2007年の5月に、何者かに因る放火に因り消失して仕舞ったのでした・・・。
 火の気の無い家でだった様ですが、周囲からも容易に侵入出来る立地だった為か、白昼からの出火だった様です。
 全焼は免れた様でしたが、再び再建しようとしたそんな矢先・・・昨年(2008年)の1月2日午前5時35分頃、2度目の出火に見舞われた様でした。

 本当にとんでもない事ですが、あの家が燃えると嬉しい人が世の中には存在するのでしょう・・・。
 残念な限りです。

 今でこそ、保存の機運は高まっていますが、昭和の終わりの頃にはその価値を理解される事無く、只のアバラ屋とかお化け屋敷と思われていたのでしょう・・・。
 困った物ですな・・。


 因に現在、建物を管理して居る方から伺ったのですが、根岸の競馬場スタンド跡が保存も見学も出来ないのは、どうやら隣接する米軍施設のせいで有る様なのです・・。
 建物の老朽化に因る構造的な問題で立入り禁止にして居ると、以前市の方からは言われましたが、どうやら嘘だった様です。
 まだ、米国に因る我が国の占領は続いて居るのですな・・。
 



2009年02月09日  23時48分
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野毛
CATEGORY : [特殊な場所]
 今年割と頻繁に飲みに行く機会の多かった街・・横浜の野毛です。

 大日本プロレスやら・・横浜ベイスターズやら・・映画・映像関係やら・・色々なツナガリで伺わせて頂きました。
 昨日も気分的には半分打ち上がっているのと・・。余り出番の無い現場と言う事で、ウチトラの皆さんと一杯飲んだりし乍ら、現場に居ました。
 しかも現場は・・コレ又行き付けの「喫茶みなと」・・・。

 まあ、ロケセット費も掛らない為、プロデューサー自らが、自分の店で撮影をする訳ですから、美術の飾りも勿論やり放題・・・。消え物も使い放題・・。酒も飲み放題(常連さんのエキストラ用です)・・・本番中にネズミも走り放題・・・。
 
 近所からのクレームも来ないし・・本当に野毛の街は良い所です・・。

 ケツが無い事(時間の制限)を良い事に、店内の現場は熱い熱気に燃え上がり・・・、ベース(監督や録音部のいる場所)の置かれ居てる冬の路上は凍え付くと言う・・凄まじい条件の結果、全員送りと言う結果と成りました・・。
 
 五反田迄のタクシー代10,770.円也・・・。
タダより高い物は在りません・・・。
2008年12月30日  11時43分
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続 野毛 だるま寿司 
CATEGORY : [特殊な場所]
 幸か不幸か・・・。
計画的なのか・・偶然なのか・・。

 打ち合わせの後に・・、二日続けて横浜の野毛を散策しているsasakitty・・・。

 どうしても、だるま寿司の中が観たい!!!と云う衝動に駆られて、遂に昨日だるま寿司さんに潜入して参りました・・。

 本当に狭かった・・、

と云うよりも、外観と同じ大きさの店内でした・・。

 写真も撮れない位の「引きジリ」の無さ・・(カメラと被写体が近いと言う専門用語です)
 
しかし、そのコンパクトさが物凄く良い感じの店内です。

 日本文化に造詣の深い外国人さんなら「千利休の茶室に相通ずる日本文化のシンボル的存在で在る」と、絶賛する事でしょう・・・。

 と言う訳で、写真が無いなら絵を描くのが美術監督です・・。

 大サービスの俯瞰図です・・。
セコい男なので、本来はギャラを貰わないと絵は疎か、一本も線を引かないのですが、感動の余り図解致します・・。

 酒も入っていた為、当然記憶で書いて居ますから・・、3割位間違っていますがご容赦下さいませ・・。


 
 この建物が出来る前は、別の場所でご商売をなさっていた様ですが、区画整理やらなんやらで、偶然にも昭和42年にこの場所に移って来たそうです・・。
 そうです・・・昭和42年と云えばsasakittyと同じ年です・・。香山リカちゃんもウルトラセブンも同じ年です・・。
 そんな昭和42年から、数える事40年の歳月を経ている訳ですが、大家さんが建てて呉れた建物と申しますのも、当時の時代を反映してか、小型の勉強部屋・・・つまりプレハブの勉強部屋をベースにして居る訳であります・・。

 成る程・・・、プレハブの勉強部屋なら此の広さは頷けます・・。
しかし勉強部屋の寿司屋さんなんて勿論、神奈川県内でここだけでしょう・・。
 いや・・世界中で此の店だけかも知れません。
プレハブ酒場と云うのは東京の恵比寿に現存しますが・・、だるま寿司さんとは些か趣が違います。

 sasakittyが入った時は、常連さんと云うよりも・・友達の様な方が仕込み中から上がりを啜って居り、まさに口開けと云う感じだった為、写真は愚かメモ一つ取れないと云う様な状況でしたが、予想通りの超ベテランのご主人の仕事ぶりに、昭和を感じさせられる訳です・・。
 此の手の店に行く時は、相変わらず幾らお客さんがいらしても、僕より年配の皆さんばかりです・・。
 6人位並べるカウンターは、1時間もしないうちに満席に成りますが、60代位の先輩達と話して居ると、だいたい話題は年金と社会保障の話に成ります・・。
 
 20年位前の昔の酒場の先輩は、再開発だの区画整理だの健康問題だの年金だの・・そんな詰んない話はしないで、昔現役だった頃のエロ話や、悪い事をした話なんかを嘘も交えて面白可笑しく話して居ましたが、最近の60代位の先輩の話の内容は、現実的でシリアスな物を感じます・・。
 これもまた時代の趨勢なのでしょうか・・。

そんな訳で、店内は至って普通のネタケースとツケ台(寿司を出すスロープ状の台)に直接寿司やツマミを出すスタイルです・・。店が小さいだけで、予想した通りにストロングスタイルを行って居ます・・。
 
 当然お座敷はありませんが、60センチ角位の黒デコラを貼られたテーブルが、壁に取り付けられており、丸椅子が4脚づつ配置されています・・。
 MAXで15人位は入れそうな勢いです・・。

そしてプレハブなので、天井が付いていません。
 つまり、屋根のパーツがいきなり天井ですから、更に茶室な感じが増強されます・・。
茶室な感じはいいのですが、夏は結構暑く成るそうです・・。
しかし、入り口側と、外に在るコレマタ仮設のトイレに出る引き戸を開けると、可成り風が通る構造なので、結構気持ち良く飲めそうな感じです。
 店のトイレが外に在ると云うのも、勉強部屋ならではと云えるでしょう・・。

あと、此の店の特徴としては、電話機が黒電話しか無いと云う事です・・。
 昔だったら、ピンク電話とか置く所なのでしょうが、こちらは黒電話です・・。
全く故障しないと自慢して居られましたが、ご主人自身も携帯電話は使い方が解らないと仰っていました・・。
 携帯とPCを捨てた時が、全てから解放された究極の自由を獲得した瞬間だと信じて居るsasakittyに取っては、まさに仙人の様な日々を送って居るご主人な訳です。

 肝心の寿司ですが、蝦蛄とコハダしか食べていませんがOKです。
ツマミのトリ貝と赤貝と鯵も良かったです・・。
 
 横浜の漁師さんは、最近東京湾の蝦蛄が減ったと嘆いて居るらしく、捕獲しない様にして居るそうです・・。
 皆さんサカナをツマミ乍ら潮流に付いて熱く語って居られました・・。 


2008年04月22日  08時07分
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だるま寿司
CATEGORY : [特殊な場所]
 以前から気には成っていましたが、私が知る限り現存する寿司店で、最小のお寿司屋さんです・・。



 周囲は全て再開発の為か・・コインパーキングに成っています・・。

横浜の桜木町の付近ですが、推定3.5坪・・。

 昨日は生憎営業していませんでしたが、近々調査したいと思います・・。

一体どんな構造に成って居るのか楽しみです・・。
2008年04月21日  00時02分
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野良犬
CATEGORY : [特殊な場所]
前にも書きましたが、大阪の街を散歩しているとこの手の看板が矢鱈と目に付きます。

立ち小便も、野良犬なら仕方が無いと言う事で、「あんたは野良犬以下だな・・」と可成り捻り過ぎな揶揄表現です・・。
 それにしても、犬のうんこもポロポロ落ちている土地柄です・・、野良犬や野良猫は殆ど居ないのですが・・。



2008年02月10日  17時29分
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中河原スタジオ
CATEGORY : [特殊な場所]
 1970年代から、大映テレビの『スチュワーデス物語』『不良少女と呼ばれて』『スクール☆ウォーズ』を始めとする数多くの映像作品を支えて来た、中河原スタジオ(多摩府中スタジオ)が、遂にその永い役割を終えました・・・。
 3つのステージから成っていたスタジオでしたが、更地に近づくにつれて意外と広い敷地だったと言う事が解りました・・。
 今後はマンションか何か建つのでしょうが、僕に取っては本当に縁起の良い場所でした。
初めて仕事をしたのは、背景を描いていた時代ですから、1993年頃だったと思います・・。
 ボコボコのホリゾントに遠見のマンションの背景を描いた事を思い出します。

その後、一括で借り受けていた大映テレビさんが撤退して、一般の貸しスタジオとしてスタートし、僕自身もデザイナーとして初めてセットを組ませて頂いたのは
 1996年5月に金曜エンターテイメントと言うフジテレビ系の番組の「殴る女」と言う作品で、柳葉敏郎さんと安田成美さんが暮らす・・アメリカのテレビドラマみたいな変な部屋を作らせて頂きました。
 その同じ年の10月には、今井美樹 さんの代表曲とも言える「PRIDE」と言う曲のPVを撮影させて頂きました。
 ディレクターの中野裕之さんから「倉庫みたいな場所は無いかな・・」と相談されたのが切っ掛けですが、メークルームのセットやら、シトロエンを持ち込んだりしての楽しい撮影でした。
 その翌年の1997年の1月には、イワモトケンチ監督の長編コマ撮り作品の「じょうじなまはげ」パイロット版の実写パートと素材撮りをしました。
 「じょうじなまはげ」自体は未だに語り草と成る伝説のアニメ作品として高い評価を頂き、海外のアニメーションフェスティバルでも賞を頂いた作品です。
 そして1998年9月にはNTTさんの企業VP「N氏の優雅な休日」と云う作品を撮影しました。デジタルの時代が訪れると、世の中がどれほど便利に成るかと言う・・今でこそ当たり前なインタラクティブの世界を表現したVPですが、アジアとヨーロッパの境界にあるレトロフューチャーな架空の街を作りました。
 この仕事も、VPの割には凝った映像表現と強烈な世界観の為か・・海外のVPのコンクールで賞を頂いたそうです・・。
 同年の10月には宇多田ヒカルさんのデビュー曲「 automatic」のジャケットとPVもこのスタジオで撮っています・・。

 単純に予算は無いけど面白い物が撮りたいと言う時に、大変威力を発揮するスタジオと言う位置付けを決定づけた年でした・・。
 そしてしばらく開いて2003年の2月にT.M.Revolution さんの「Meteorーミーティアー」と言う曲のPVを撮影致しました。
 このPVも近未来の都市を表現したミニチュアセットと合成を多用した仕事で、ひたすらミニチュアの素材と、車の中での西川さんを撮り続けた思い出が在ります。
 そして翌年の2004年の4月には「お父さんのバックドロップ」と言う劇場公開の映画の撮影で、金剛園と言う焼き肉屋さんのセットと、主人公の神木隆之介くんの暮らすアパートの部屋のセットを組ませて頂きました。

 この作品も、低予算な割には評判も良く、大日本プロレスの皆さんの熱演が光るプロレス映画の名作でした。
 そして2007年・・テレビ東京の連続ものの深夜ドラマ「魔法先生ネギま!」と言う仕事を最後に、永きに渡ったスタジオの生涯に幕を閉じました。 
 最後の「ネギま!」は基本線をデザインしただけで、ご意見番みたいな立場での関わり合い方でしたが、連日、若いスタッフやキャストの活気在る声が現場に飛び交っていました。

 
 同録中を告げる赤灯だけが、ポツリと残って居ました・・。
僕には縁起のいいスタジオでしたが、録音部さん泣かせのスタジオであった事も事実だった様です。



2008年02月08日  10時46分
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タジマハル
CATEGORY : [特殊な場所]
 東京にも、米軍の基地は何カ所も在りますが、其の中でもひと際規模のデカイ基地と云えば、福生市に隣接する横田基地と云う基地です。
  山田詠美さんの小説の舞台に成った場所でもあり、多摩地区と云う場所であり乍らも、其の周辺だけはアメリカンナイズされた、英語の看板が多かった町です。
 今でも其の名残は在るのですが、湾岸戦争や9.11のテロ以降、アメリカの兵隊達もすっかり軍服を着て町を歩く事も無く成りました。
 
 僕が此の町に初めて訪れたのも、20年位前の遥か昔と成りますが、其の時あたりから、道路の拡張や、時代の移り変わりに因り随分と町の風情も変わり始めています。
 
 此の町が最も賑やかだった時代と云うのは、ベトナム戦争の時代だったらしく、不毛な戦いに向かうアメリカの青年達を、買い物や飲酒と云う行為に因って、慰めていたのが此の町の人々だった訳です。
 
 そんな横田基地前の商店が軒を連ねる通りには、数多くのカスタムテーラーが点在しています。
日本に限った事ではなく、タイや韓国なんかでも外人旅行者や軍関係社相手のテーラーは、貴重な外貨獲得手段だった訳です・・・。
 欧米に比べて人件費が安く、手先の器用なアジアの国々は、いつの時代も彼らに服を供給し続ける訳です。
 そんな数多くのテーラーの中に、sasakittyがシャツを発注して居るお店があります。

 1950年代後半に、インドネシアから遥々日本に来たナヌワニさんと云う青年が開いたタージマハールという洋服屋さんです・・。
 
 そもそもナヌワニさんが何故日本と云う国に興味を抱いたのかと云えば、少年の頃に隣に棲んで居たおじさんが、嘗て日本に行った事が在った様で、極東の島国の素晴らしさを、まだ幼いナヌワニ少年に教えてあげた事が切っ掛けでした。
 美しい瞳を輝かせ乍ら聞き入った、「日本に行って見たい!」と云う夢を、いつしか少年は叶えて仕舞う訳なのです・・。
 福岡を皮切りに、知り合いのテーラーで修行を続け、神戸や赤坂、横田と云った場所で商売を拡大して行った訳です。
 70年代のピーク時には、六本木にも出店していた様ですから、インドネシアから来た少年は、マルコポーロも見つける事の出来なかった黄金を、手に入れて仕舞ったのでした・・。
 今は使われて居ない、倉庫の片隅を見せて頂いた事が在りますが、60年代のオーディオセットや、Uマチックのビデオデッキ、70年代のリコーのファックスと・・。
 その当時の稼ぎっぷりが伺い知れます・・。

 日本自体も高度経済成長時代ですから、一番良い時代に結婚をし、子供達を育て上げたのでしょう・・。
 日本で育った息子さんや娘さん達も、今では世界各国で御活躍なさっているらしく、冬に成るとナヌワニさんは孫に会う為に、オーストラリアとインドネシアへと旅に出るそうです・・。
 奥様も一度お会いした事が在りますが、流暢な神戸弁を御使いに成るインドネシア人の奥様で、三人で話しているととっても不思議な気分に成ります・・。
   
 当然の事乍ら、僕より長年日本に居る訳ですから、当然・・日本人としても先輩に当たります・・。
昨日も僕が着けていた、水前寺清子さん柄のネクタイを見つけると、「チーターとひばりちゃんは好きよ!よくドラマも見てたね、ワタ鬼に出てた女優さん(山岡久乃さんの事)が出てた奴とか・・」と、70年代当時放送されていたTBSドラマ「ありがとう」の事を熱く語ってくれました。
 敬虔なヒンドゥー教徒でも在り、神様の話は果てしなく続きます・・。
もう、70歳も過ぎて、悠々自適な日々を送っていらっしゃいますが、様々な物への感謝の気持ちを忘れない其の宗教観は、心洗われる物が御座居ます。
 昨日も、福岡の時代から使っていると云う竹の物差しを見せて頂きましたが、半世紀を生きて居る物差しは、其の激動の時代を物語るには十二分な貫禄を醸し出して居りました・・。



タジマハルのタグですが、NISHITAMA郡だった時代からの物です・・・。


2007年04月07日  06時22分
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良心の・・・
CATEGORY : [特殊な場所]
2007年03月25日(日)
こんな所に在りました。

2007年03月26日  14時26分
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願い
CATEGORY : [特殊な場所]
2007年03月11日(日)
 東京近郊の調布市と云う町に、深大寺と云うお寺さんが在ります。
深大寺蕎麦と云う門前そばが有名ですが、嘗てはこの界隈も そば粉の産地としても有名だった様です。
 武蔵野の緑と清らかな水に囲まれた、ナカナカ風情の有る観光スポットでも在ります。

 一頻り参道を流してから、お寺さんに伺うと、大量の絵馬が奉納されています・・。

人には色々な願い事と云う物が存在致します・・。
 絵馬と云えば合格祈願や就職祈願などが多く、医学の進んだ現代ですと、病の治癒や子宝を望むものなど等は全体的には減って居る様ですが、人が俗世に身を寄せ合って居る限り、悩みと云う物は尽きないのでしょう・・。

 そんな人々の熱い祈りを眺めていると、一枚の絵馬が目に止まりました。

帰化したいと云う切実な願いが込められていますが、日本名の名前が書いてあると云う事から察するに、ご両親の何れかが外国の方の様です。
 どんな条件で、帰化出来ないのかは存じ上げませんが、まだまだ子供の様なので、一刻も早く願いが叶えば良いなと心を動かされます。
そして三尺三寸お隣に目をやると・・・。

「・・・・・・・・・・・・」
「今年こそ」と云うくらいなので、何年もトライなさって居る様ですが、何と申していいのやら・・。


帰化したいと望む少女は横書きで、黒人に成りたいと云う少年は縦書きで願いを書いて居る所に、物語を感じます・・・。

そんなクロスオーバーした複雑な願いを受けと止める、阿弥陀様の懐の深さを僕も見習いたい物です。

2007年03月26日  14時08分
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社民党本部食堂
CATEGORY : [特殊な場所]
006年07月08日(土)

 昨日は、国会議事堂付近の神社で、近くクランクインする作品の御祓いと打ち合わせが在りました。
 丁度昼過ぎに終わった為に、さて「腹が減っては戦に成らぬ・・」と云う昔の日本人の理論で、お昼を食べる場所を探しました・・。
 
 余り馴染みの無い土地柄と居う事も御座居ます・・。一回行った事が在るのは、森嘉朗元内閣総理大臣が贔屓にして居る鰻屋さん位な物ですが、森の中の離れの料亭で、まっ昼間から鰻なんか食べた日には、狸や狢(むじな)に化かされそうな気配を感じます・・。
 
 とは云え、場所柄、マクドナルド等で呑気にハンバーガーなんか食べて居る日には、世界各国の、反米テロ組織の攻撃に巻き込まれる可能性が在ります・・。
 とは云え、国会周辺です・・。と無い知恵を絞った結果一件だけ安全な店を思い出しました・・。
 
 先日もお話致しましたが、安全は総てに優先する訳です・・。

 そして訪れたのが、社民党本部の在る、社会文化会館です・・。
我々中年には、社会党本部と云った方が、馴染みの深い所です・・。

 永田町の中でも、北の脅威の最も少ない場所です。しかも食堂は地下なので、あらゆる上空からの急襲にも安心して食事が出来ます。
 学が無いのでイデオロギーの話は良く解りませんが、入り口は歓迎ムードです。

私の様な、ノンポリの古風な思考をのオジサンでも、社会主義は飯を喰わせて呉れる様です。
 感受性と想像力だけは異常に進化して仕舞って居る私には、終戦直後の朝鮮半島各地で、飢えに苦しむ子供達にお粥を分けて呉れた、オモニの愛情と同じ物を感じずには居れません。
 有難い時代です・・。扉を開けて、薄暗い地下の階段へと進みます。
 
 公安に免許証番号を控えられて仕舞っているドジな私でも、自民党本部には、撮影で二度ほど行った事が在ります。 与党には警察の皆様の厳重な警備体勢が敷かれて居る為、容易には中には入れて貰えません。
 そんな事情で 政権与党は、お腹が空いたからと云う理由だけで、私の様な河原者の雑民に対して、飯を施して呉れる様な事は間違っても仕手呉れません。


私の様な、ノンポリ野郎は、階段を徒歩で下って食堂を利用させて頂きますが、福島代表は右手に見える深紅のエレベーターを御利用に成るのでしょう・・。
 常に革命の心を忘れない、党の姿勢に感銘を受けます・・。
床のレッドカーペットは、国会議事堂に対するオマージュなのでしょうか・・。一時も国政を忘れないと云う戒めの様にも感じられます。
 
いよいよ、席に付きますが、メニューは北朝鮮とは違い以外と豊富です・・。
 ビビンバや平壌冷麺は在りませんが、うどん・そばを始め、海老フライ定食や鰻定食迄在ります。アルコールも、日本酒とビールが在る様です。
 地球温暖化防止に配慮して居る為か、チョツピリ薄暗い感じが致しますが、70年代初頭デザインと思われる、黒いビニールレザー張りのダイニングチェア−からも、社会主義なムードを微妙に醸し出して呉れても居ます・・。
 土井たか子先生も御多忙な選挙期間中に、此の食堂で素うどんを啜り乍ら、天下国家を語って居たのかと思うと、興奮せずには居れません。
 辻元清美議員も、秘書達と食事をする際に、入り口のおばちゃんに人数を偽って申告していたのかも知れません・・。 ここのテーブル達は、其の総てを見守って来た訳ですから、そこら辺の学生食堂や社員食堂とは、伝統と格式が違います・・。
 
 
 壁に張られた、健康な暮らしを奨励する貼り紙の数々に、学校の保健室に通ずる物を感じますが、党員の健康と成人病予防と居う命題に賭けている、福島代表の愛を感じます。

 取り敢えず、空腹を満たす為に豚のショウガ焼きを発注致します、600円とは流石社会主義なリーズナブルな価格です。しかしブルジョアジーのシンボルとも言える、アイスコーヒーは、350円と云う制裁価格が取られている様です。

 予想以上にちゃんとした、ショウガ焼きですが、豚肉自体も脂肪分の多いロースの部位では無く、党員の健康に配慮したショルダーに近い部位を使用して居る様です。 食感からして、更にコレステロール値も低く、あの将軍様も奨励して居るダチョウの肉にも思えますが、酒浸りで麻痺した私のロクでも無い舌では、其の味の違いは判別する事は出来ませんでした。
 肉の大きさに対しても、関係諸外国に対する配慮を感じずには居れません・・。

 ようやく、安全な場所での食事を終えると、革命の血の色を思わせる、紅のエレベーターに乗り、正面玄関から出ます・・・。
 正面玄関には、山口乙矢青年に命を取られた、淺沼稲次郎委員長の彫像が鎮座まします。
 頭上で時を刻み続ける秒針に、死して尚 革命の動きを止めては行けないと云う、淺沼委員長の意志が伺えます。
 

食後の一時に、深い歴史と因果を感じます・・。
 
 入り口周辺には、「関係者以外立ち入り禁止」と2ケ所も書かれていますが、地下の食堂で同じ釜の飯を喰ってしまった此の私は、ニワカ同士として、大手を振って社会文化会館を後にした訳で御座居ます。
 
 お近くにお立ち寄りの際は、是非御利用下さい。デートコースとしても別れ話をするのに最適です。



 オマケです
地下鉄の永田町の駅の売店の画像です。

 永田町では、日本経済新聞の次に人気があるのが、東スポの様です。
日本の立法の中心部に、最もスピーディーに情報を伝えて居るメディアは、東スポだったのです。 
 東スポ侮れません・・。


2007年02月24日  20時13分
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東映東京撮影所
CATEGORY : [特殊な場所]
2006年04月04日(火)
 昨日は午前中ロケで、埼玉県の某建て売り住宅分譲地で撮影をしておりました。
生憎の強風の為、大変な撮影でした・・。昨日の様なロケセットと居う場所では、
 大前提として、現状復帰と居う事となって居る為、穴を掘ったり、杭を打ったりと居う事は出来ません。
 その為、柵を立てたり、庭木を立てたりと居う時も、総ては自立式で、
重り(ウエイトと呼んでいますが・・)で固定します。一個10キロぐらいの鉄の固まりですが、昨日は突風で大変な目に合いました。  風だけは誰にも止められません・・。
 もう一つ凄かったのは、黄砂です・・。中国かと思う程に、畑の砂を巻き上げて遠く彼方が黄色く霞んでいました・・。恐るべし埼玉です・・。
 と云う訳で、ロケが一段落付き、メルちゃんを残して スタジオに先に戻り、作業も終わって一段楽し、東映東京撮影所の所内案内図を眺めていると・・、

何と・・1st(1スタ・・・スタジオの略です)の裏に理髪室を発見!!

早速探検です・・。どんな理髪室なのか興味は深まります・・。
なんと云っても、東映ですから、恐らく戦隊物に出て来る様な、両手に鋏を付けた改造人間か、ヤクザっぽい風体の梅宮辰夫みたいな不良番長か・・期待は高まります。
 在りました・・が・・

余り営業している風では在りませんでした・・。

 スタジオの方に聞いてみると、たまに営業して居るようで、所外からのビジターのお客様も来る様です・・。
 角刈りとか頼むと良いのでしょうか・・。きっと、昭和な感じが味わえる事でしょう。


2007年02月01日  07時23分
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